![]() |
|||||||||||
|
![]() このお話は「Brain & Mind」の中心テーマである「脳と心」についての講義シリーズです。まず第1回目である今回は、「脳と心」の関係について考えてみましょう。
「心は体のどこにある?」と問われたときに、左胸の上に手を当てて「ここです」と答える方は案外多いようです。確かに、日本語で言うところの「心」には「気持ち feeling」あるいは「気分 mood」など、いわゆる「情動 emotion」的なものが含まれています。「心を動かされる」とか、「心を悩ます」という用法がこれにあたります。そうすると確かに、私たちは好きな人を見て「ドキドキ」したり、悲しいことがあって「胸が締め付けられる」ような感覚を覚えるのですから、「心」が「心臓」にあるという気持ちになるのは、ごく自然なことでしょう。いえ、もともと「心臓」というネーミングはそこから来ていたのでした。 辞書を紐解いてみると、「心」が表すものとして、他に「精神 mind」や「考え thought」があります。「心が広い」とか、「心に浮かぶ」などという使い方は、こちらの分類になるでしょう。この場合に、「心」は「体」と対比される言葉であるとも捉えられています。この考え方からいえば、「心は体の中には無い」という答えが導きされるでしょう。つまり、「精神」と「身体」は別の異なるものであるという、いわゆる二元論です。でも、本当にそうでしょうか? まず、私たちが感じる「心」は、私たちが「生きている」からこそ成り立っています。死んでしまった人には「心」はありません。ここで申し上げているのは、「故人の精神 spirit は残る」「仏の御心」というような抽象的、概念的な意味ではなく、あくまでその人、個人の「心」です。つまり、「心」も生命現象の一つの表れであるといえるでしょう。だとすると、「心」は「体」と対立するものではないように思えてきます。 「心臓」は私たちが生きていく上で欠かせない大事な臓器の一つです。ですが、この心臓を患っている人が即、「心」または「精神」も患っているといえるでしょうか? あるいは、心臓病の治療のために人工心臓を移植したら、その人には「心」が無くなってしまうでしょうか? 他の人の心臓と入れ替えたら、その別の人の「心」に変わってしまうのでしょうか? そうではないことは自明でしょう。確かに、「心臓」は「心」の有り様を大きく反映するものですが、これは「情動」が「自律神経」に大きな影響を与え、アドレナリンなどのホルモンを介して即時に働くことによるのです。 「心」を各個人のアイデンティティーを表すものと捉えた場合に、体の中で他の人のもの(あるいは人工臓器)に置き換えられない臓器として「脳」が浮かび上がってきます。そう、その人それぞれの「心」をつくりだしているのは、実は「脳」つまり「脳味噌」なのです。ということは、「心」も「体」の一部と考えることができます。
「脳」が損なわれる病気が「心」を変えてしまうということもあります。例えばアルツハイマー病という脳の病気は、主に大脳皮質という脳の部分に存在している神経細胞が失われていくことによって生じます。そのことによって、呆けたり、人格が変わってしまうのです。 現在、脳研究者は「心は脳がつむぎ出すもの」と捉えています。別の言い方をすれば、「心は脳の内的現象」です。ここでいう「心」には非常に広い意味の精神活動、すなわち、認知、情動、意志決定、言語発露、記憶、学習などが含まれます。どのようにしてこのような心の営みが成り立つかというと、それは脳の中にある数百億もの細胞の秩序だった働きに依存しているのです(脳の細胞の細かい機能については、次回のお話に回します)。 ちょうど、コンピュータの中に膨大な数の素子やら回路やらがあって、その働きによって、表計算をしたり、漢字変換しながら文章を作成することができたり、画像処理や図形描画が可能になっているようなものだと捉えてもよいでしょう。
でも、私たち脳研究者はまだ「脳と心」の研究の途に付いたばかりといえるでしょう。「脳と心」の作用はあまりに広範であり、まだ分からないことばかりです(そもそも、「分かる」とはどういう神経活動なのか、どんな遺伝子が関与するかも分かっていません)。ですが、「脳」の発生発達を理解することによって、健やかな「心」を育むにはどうしたらよいかという答えを見つけることができると、私たちは信じています。 (文責 大隅典子) |
||||||||||
![]() |
|||||||||||