ニューロン新生の分子基盤と精神機能への影響の解明 CREST 「脳と学習」領域 大隅プロジェクト
脳と心のお話(第十話)「若者の考える脳と心」

神戸学院大学人文学部教授
山鳥 重

神戸学院大学人文学部教授 山鳥 重

プロフィール

1969年神戸大学大学院医学研究科修了医学博士。1972年ボストン大学メディカルセンターニューロロジーレジデント修了。神戸大学医学部精神神経科助教授、兵庫県立姫路循環器病センター神経内科部長、兵庫県立高齢者脳機能研究センター所長、東北大学大学院医学系研究科障害科学専攻高次機能障害学分野教授を経て、現在神戸学院大学人文学部教授。専門は神経内科学、神経心理学。意識や言語など心理過程の成立機序に関心。近著に「知・情・意の神経心理学、青灯社、2008」など。

今わたしの勤務している大学には毎年、新入生に対する心理学のイントロダクションのコースがあり、わたしは与えられた1コマで、専門の神経心理学分野を紹介しています。簡単に脳と心の関係を話した後、「心はどこにありますか?」という課題を出し、800字程度にまとめて提出してもらっています。

 

驚いたことに、学生のほぼ半数が心は心臓にあると思うと書いてきます。理由はいろいろで、心臓という漢字を使っているし、こころも心と書くから心臓だと思うとか、心のことをハート型に描くから心臓にあると思う、などというものから、恋すると心臓がきゅーとしてくるのが分かるから心臓だと思うとか、子供の時から嘘がばれたりすると、「胸に手をあててよく反省しなさい」と先生や親から言われてきた。胸に心があるから、そう言うのだと思います、というのもあります。

意外に多いのが、心臓移植を受けた人の趣味や性格が、提供者の趣味や性格に変わってしまった、というテレビドキュメントを見たことがある、やっぱり、心は心臓にあるのだと思います、というものです。これは毎年誰かが書いてきます。

この辺までは、わたしの講義とは無関係な感想ですが、教授は脳が心を作る、などと講義していたが、教授がそう言うならそうかも知れないが、納得できない。自分の心はやっぱり、ハートにあると思うと書いてくる学生もいます。

 

イントロの後半に、学生の興味を惹くためもあって、既に紀元前4世紀、ギリシャの哲学者プラトンは、脳と心の関係を知っていた。彼の著書、ティマイオスには、ティマイオスという人物に、心は頭と胸と腹にあり、頭は理性、胸は情熱、腹は欲望の心を持っている、と語らせているという話をしますと、みんな結構乗ってきます。昔の人は偉い、その頃から、胸に情熱の心があると考えていたのだからすごい、という感想を書いてきたりします。

 

ただ、心のすべてが心臓にあると思っているわけでもないようで、もっとクールな心の存在を認める感想もあります。「頭で考える」というし、「よくよく頭を冷やして考えなさい」などと言われるので、精神は頭にあると思う、という理屈です。

あるいは心を特定の臓器と関係づけるのを嫌う感想もあります。心が「脳に在る」とか、「心臓に在る」とか、そんな風に考えたくない、心は全身にある。あるいはこころは仲間と自分の間にあると書いて来ます。「こころが『どこに』ありますか」、という設問のまずさを突く鋭い感想です。

もちろん、心は脳にあると思う、と書いてくる学生も結構います。しかし、ごくごく素直に考えて、平均的な日本の高校教育を経てきた平均的な文系の大学生の半分くらいは、心は心臓、あるいは心臓の辺りにある、と考えていることが分かります。

 

学生たちは、心を「熱いもの」、あるいは「優しいもの」、あるいは「悩むもの」などと、素朴に、直感的に捉えています。この心は心臓の拍動と同一視されています。この、素直な「感じる心」は、頭蓋骨の中に収まっていて、その動きを感じることが出来ない、つまり熱くも、冷たくも、痛くも、痒くもない存在、表現を変えると知識を使わないと理解できない脳なるものには親しみが持てないようです。心に脳が関係していると言うのなら、それは彼らの考える心ではなくて、精神のようなより抽象的な心です。「今、生きている」、「今、恋している」、「今、悩んでいる」という感情と結びつくのは、なんてったって心臓だ、ということなのです。

 

これはいったいどういうことなのでしょうか?

ヒポクラテス以来、あるいはおそらくはもっとずっと古くから、メソポタミアやエジプトを中心とする古代文化圏では脳の存在が知られていたのに対し、わが国では、江戸時代に蘭学が入るまで、脳という臓器の存在すら知られていなかったという歴史の違いを反映しているのでしょうか?あるいは、初等教育に問題がある、と考えるべきなのでしょうか?あるいは、ハートを強調する、テレビや漫画などの通俗文化の影響が強すぎると考えるべきなのでしょうか?

わたしは、単に無知のせいだとは思わず、少し違ったことを考えています。たぶん学生たちは、自ら気づいてはいないのですが、心の直接性、もう少し大げさな表現を使えば、デカルトが理論的に取り出した「主観性」を心のもっとも大切なもの、と直感的に感じているのだろうと思います。つまり、学生たちは心を心臓に置いて考える時、心が自分そのものであることを、もっとも素直に理解できるのだと思います。心は脳が作り出す、と聞いた後でも、なおかつ、そんなことはない、と反発するのは、この心のもっとも大事な「感じる」という性質が、心を脳に持っていったのでは、消えてしまうように思うのでしょう。

 

確かに、人は「熱い」心を持って、一生を生きてゆきます。目標を立て、その目標に向って行動します。「頑張ろう」、あるいは「なにくそ」と心を奮い立たせながら、いろいろなことに挑戦します。失敗すれば、「あーあ、もう駄目だ」と落ち込み、悩みます。頑張るのは「わたし」で、他人ではありません。落ち込むのも「わたし」で、他人ではありません。この、頑張り、落ち込む「わたし」を直接表していると感じられるのが、心臓の動きなのでしょう。

 

今や、世間には脳の話が氾濫しているのですから、こうした学生の感想は時代とかなりずれていると言えます。たぶん、脳の話というのは、自分とは関係のない、どこか遠いところの話なのでしょう。恋や悩みなど、かれらのもっとも大切な心の問題は、ニューロンとニューロンが情報を交換しあうコンピューター的なものとして解説される脳の話とは結び付けようがないのでしょう。

学生が心と脳を一緒にしたくない、百歩譲って、精神は脳に譲っても、心は心臓にとっておきたい、と感じるのは、案外当たっているのかもしれません。人間の直感はプラトンでも、現代の若者でも同じなのだと思います。何も変わっていないのです。

 

心理学を志す学生たちは、多かれ少なかれ、他人を助けてあげたい、他人の悩みを分かち合ってあげたい、という熱く優しい気持ちを持って、大学に入ってきます。その学生たちに、心は脳が作り出す現象なので、心を分かるためには、脳のことや医学のことも少しは勉強したほうがいいよ、と言うと、多くの学生は「医学なんて関係ないよ」としり込みをします。「心臓は心の座でなく、血液循環系の中心だ」というと、裏切られたような顔をします。

入学したての学生たちの、こうした素朴な感受性を真っ向から裏切ることだけはないように、しかし、知識を積み上げる心だけでなく、君らが考える本当の心、胸にあると思っている熱い心も、やっぱり脳が生み出すのだよ、ということを教えてゆくわけですが、いささか苦心のいるところです。

 

杉田玄白:解体新書話が飛びますが、かのパスカルはパンセの中で、

It is not in space that I must seek my human dignity, but in the ordering of my thought.

と言い、また、別のところで、

Through space the universe grasps me and swallows me up like a speck; through thought I grasp it.

とも言っています(原文でも和訳でもなく、英訳でごめんなさい)。

この文は、空間と思考、あるいは宇宙と思考を対置することによって、思考という営為の特殊性、つまりは人間の心の働きの素晴らしさを鮮やかに表現しています。脳科学は、パスカルのこのような思考を生み出すことも出来る脳という臓器を、新たなる宇宙に見立てて、その仕組みの解明に挑戦しています。われわれ脳や心の研究に携わるものが、思考という働きを、脳の働きを媒介に、対象化し、分解してゆく過程で(つまり、思考が思考を対象化する道筋で)、知らず知らずのうちに、パスカルの言う人間の尊厳をも、同じように分解し、雲散霧消させてしまわないよう、自戒したいものです。

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