ニューロン新生の分子基盤と精神機能への影響の解明 CREST 「脳と学習」領域 大隅プロジェクト
脳と心のお話(第六話)「幼き日の記憶から考えたこと: グリアへの期待」

国立精神・神経センター神経研究所 疾病研究第四部 部長 和田圭司

遠〜く、昔、自分がまだ子どもだった頃、一番古い記憶は何だったんだろう、と皆さんもよく考えたことはありませんか? 断片断片に情景が思い浮かびます。私の場合は、本当にそれが一番古い記憶として正しいのかどうか分かりませんが、家族、親類と花見に行った景色が思い出されます。桜だったか、花がいっぱい咲いていて、石段を下りた先の少し広くなったところでお重を広げて・・。そのあとは思い出せないのですが、そういうシーンでした。その日だったかどうか分かりませんが、窓の日よけが下ろされた、たぶん阪急電車でしょうか、電車に乗っている場面も思い出されます。普段使っていた近鉄電車の日よけとは異なっていたように思いますので、阪急電車の記憶が残っているのは、自分にとってとっても嬉しい体験だったからだろうかと想像したりもします。このように、幼少時の、あるいは長じてからもそうだと思いますが、記憶というものは断片、断片として誰しも残っていると思います。でも、あるところからであって、それより以前の幼少時の記憶はどうしても思い出すことは出来ないようです。

なぜある時からしか思い出せないのでしょう? いろんな説があるようです。記憶過程そのものが未熟なのだという考え方があるようですが、小学生の時も中学の時もそれぞれの記憶は断片断片としてしか残っていないわけですから、長期記憶に関しては、記銘、保持、あるいは想起という部分はそれ自体がひょっとしたら比較的未熟なままなのかもしれません(逆に言えば忘却の力がそれだけ強いとも考えられます)。重大なことに対しては意識の下に置く力が大人より強く働くのだというようなことも言われていますが、悪いことだけでなく良いことも、ある時を境にしてそこから昔はさっぱり思い出せないようです。私自身は知識があまりありませんので詳しいことはよく分かりませんし、大それたことはいえませんが、なぜある時からしか思い出せないのかと言うことを考えた場合に、ひょっとしたら幼少時の記憶は覚えていないということがその後の自分自身の発達のためには必要なのではないか、と突拍子もないことを考えたりもします。脳を育むためには時として(完璧な)忘却も必要なのかもしれません。生体は、その生命活動の仕組みにおいて基本的には合目的なシステムを作り上げていると思いますので、ある時から昔を全く思い出せないのも理由があるのだろうと思い、そんな突拍子もないことを考えた次第ですが実証するにはなかなか難解な課題かもしれません。

大人と比べた場合、幼少時の不思議な面はその他にもいろいろあるように思います。胎児もそうです。学生時代に不思議に思ったことはどうして胎児はお母さんの子宮の中で逆さまの位置なのか、どうして体の部分に比べて頭は大きいのかということでした。頭が下にあるのは産道を通る加減でその方が望ましいからというのは理屈が通っているように思いましたが、頭が体部に比べて大きいのは今もなにやら謎めいています。最近は子供の体型もよくなって、今では八頭身近いという子供も出てきているかと思いますが、それでもさすがに生まれた時から八頭身の赤ちゃんはいないでしょう。頭が下向いているわけですから、重力の影響を指摘する人がいるかもしれません。でも、いわゆる逆子でも頭部の成長は同じです。ではなぜ大きいのでしょうか?私には、胎児期には体幹に比して頭部が大きくなければならない理由があるように思えます。胎児期だけでなく幼少時は体幹にくらべて頭部は大きいですが、長さの比率から言えば胎児期の頭部の大きさは特徴的です。まず、体幹よりも脳という部分を構築することが必要だからかもしれません。ではその頭部を先に大きくする機序ですが、胎児の自律的な元々持って生まれた仕組みが働いているからとしか今のところは言いようがないように思います。頭部を大きくすると言うことは、脳や頭蓋骨の構成細胞が活発に増殖して組織としての容積を増しつつ分化を果たすと言うことであると思われますが、代謝・栄養学的にみれば十分な物質が供給されねばなりません。例えば、胎児が自分で作れない必須アミノ酸や必須脂肪酸などは母体からもたらされるはずですが、それらは胎児の全身にくまなく分布すると考えた方が自然と思われます。とすれば、頭部が大きくなるには胎児期に頭部でこれら必須の栄養素を積極的に取り込む自律的な仕組みが働かないといけないと考えられます。脳の構成にはもちろん必須アミノ酸や必須脂肪酸以外も必要なわけですから、胎児期には頭部で栄養素全般を積極的に取り込む仕組みが働いているようです。私たちは、この仕組みを明らかにしたいと考えてCRESTにおいて研究を進めているところです。

さて、代謝・栄養面に話が及びますと、脳におけるグリアの重要性について触れないといけないでしょう。なぜなら、グリアは脳内代謝を考える上で大変に重要な細胞だからです。グリア細胞は日本語で書けば、神経膠細胞と表されるようにこれまで神経細胞に対して糊のような役割をする細胞、つまり支持細胞としての位置づけがなされてきました。しかし最近の研究から、グリア細胞も積極的に神経伝達を制御していることが明らかになってきています。このあたりの事情は例えばMillerによるThe dark side of glia.Science.308:778-781, 2005あたりが詳しいですが、Neuron-Glia Interactionというセッションが神経科学関連の多くの学会で設けられている昨今の状況を見ましても、その重要性に着目が集まっていることが分かります。(少し余談になりますがこの言葉のネーミングには日本人の先達が居られることを学びました。1971年に新潟医学会雑誌に中田瑞穂先生がNeuro-Gliologyと題した小論文を寄稿されています。詳しくは特定領域研究「グリアーニューロン回路網による情報処理機構の解明」のホームページをご覧ください)。さて、グリアに本題を戻しますと、私たちは神経細胞とグリアという脳の中だけのことでなく、広く末梢からの情報も含めた「生体情報とグリア」という観点からグリアを捉えるようにしています。その理由は、血液脳関門の構成成分を考えたら分かりますように例えばアストロサイトは血管と接している事実があったりするからです(図1)。代謝栄養面を考えれば脳への入り口はアストロサイトに代表される非神経細胞と考えても良いと思います(非神経細胞には脈絡膜細胞など重要な細胞がありますが、今回は紙面の都合で主にグリアを述べます)。胎児期には血液脳関門は未熟とされていますので特にグリアが発生した妊娠後期以降における脳内代謝におけるグリアの重要性は大変高いのではないかと考えています。ですので、胎児期に頭部で積極的に働いていると予想される栄養素取り込み機構にはグリアが主要な役割を果たしているのではないかと期待しています。また、胎児に限らず成人でも、例えば、神経変性疾患、アルツハイマー病などは以前から脳血流との問題が論議されていますし、さらに最近の研究では、アルツハイマー病は生活習慣病のカテゴリーに入るという仮説が各方面から提出されています。精神疾患でも、同様に例えばうつ病と生活習慣の関連などが取りざたされています。これらの仮説の生物学的検証にはまだまだ実証的実験が必要ですが、脳の生理と病態を解析するには脳の中だけを見ていたのではことが足りないということの現れと考えられます。グリアは脳疾患の発症の原因にもなり、病態の形成にも多大に関係すると考えますが、このようにグリア一つを論じても脳の中だけを観察するのが脳科学でなく、広く生体を観察するのが脳科学の真髄といえるのではないかと思います。
(図1) ラット大脳皮質のグルタミン酸トランスポーターGLT-1の免疫電顕像。GLT-1陽性アストロサイト突起(A)が血管を取り囲んでいる。E:血管内皮細胞。Bar=1μm (疾病研究第4部 古田晶子博士提供)

思えば、脳活動の評価にこれまで多大に寄与してきた脳波学は、その初期、肝性脳症など生体代謝との関連で研究が進んできました。脳波に限らずPETにしてもfMRIにしても今脳画像解析装置で捉えられている現象の多くは脳の代謝が多大に関係します。ですので、これらの脳機能画像解析装置で測定される多くのデータにはニューロンだけでなくグリアの活動性が大いに寄与しているだろうと予想します。さて、そのように考えますと、先にグリア一つを論じてもと書きましたが、少し修正をした方が良いだろうと思います。グリアはもちろん教科書的にはアストロサイト、オリゴデンドロサイト、ミクログリアに大別されますが、ニューロンが例えばグルタミン酸作動性ニューロンやらGABA作動性ニューロンなどに細分されるように、3種のグリア細胞もそれぞれもっと細分されることが分かってきています。グリアの多様性と言いましょうか、細分されたグリアはそれぞれの脳部位で選択的な機能を持っていると考えて良いだろうと思います。将来は、グリアはアストロサイト、オリゴデンドロサイト、ミクログリアの3種にしか分類されていなかった時代があった、という様に振り返られる未来が来ると思います。脳活動・こころといった問題を捉える場合に神経情報伝達の解析に加えて、それぞれの脳部位でのグリアがもたらす脳内の代謝・栄養学的事象も重要な解析課題と考えます。更に話を広げれば、代謝・栄養と切っても切れない関係にある内分泌、免疫など生体反応に関わる極めて重要なシステムと脳機能、こころとの関連性をグリアの面から、さらにはグリアーニューロン相互作用の面から捉えた研究はとっても重要と考えています。((図2) 生体、グリアを意識した脳科学研究の重要性や精神・神経疾患研究はボーダレスな観点から取り組む必要があるのではないかという自説をそれぞれ図示したもの。このような研究を発展させたいなと思いますし、発展させねばと思います。さらにもっともっと話を広げれば、生体情報だけでなく、いわゆる末梢神経が主役の五感以外の外界との関連において、グリアというものを捉えていくことが要求されるでしょう。話は尽きませんが、例を一つあげれば、うつ病と季節、気圧など気象事象との関連は疫学的にも言われていますし、患者さんの生の声としても良く聞く事柄です。脳の病気、こころの病気を考える場合、脳における外界センサーとしてのグリアという位置づけをしてみるのはどうでしょうか。また少し「外界」から話はそれますが、神経変性疾患におけるうつ病などの問題はこれまで患者様の心理的な側面で説明されてきたことが多くありました。しかし最近の研究からうつ病の発症も神経変性疾患自体が持つ固有の生物学的機序に基づく場合が多いと考えられるようになってきています。神経変性疾患はこれまで神経細胞死を特徴とする疾患と捉えられていましたが、神経細胞死に至る前の神経細胞機能不全の状態が、発症機序解明の点からも根本的治療法開発の点からも重要視されています。この神経細胞機能不全ですが、精神科領域の症状を引き起こす元にもなっているのではないかと想像します。さらに神経細胞機能不全や神経細胞死がグリアの変調を誘導し、ニューロン・グリア相互作用のバランスを崩し、同様に精神科領域の症状を引き起こす局面もあるだろうと考えています(図2)。

生物の進化を見た場合、下等動物であればニューロン対グリアの数の比は分母であるグリアの数が少なく比としては大きくなりますが、高等動物になればなるほどその比が小さくなり逆転していきます。精緻な脳活動を絶妙にコントロールするためにグリアというものが生み出されてきたのでしょう。外界、生体情報などを巧みに捉えたグリアがもたらす神経伝達の制御が実は知能、記憶など高次脳機能を生み出す支えとなっているようにも思えます。しかし、グリアを増やすということは脳機能の制御という面ではよい効果をもたらしましたが、反面、外的要因により多く触れるようになったわけですから、高等動物はストレスに対して脆弱だと言われるように、グリアを増やしたがために脳とこころの病気を時として発症するという負の面も併せ持ったのだと想像します。

さて、冒頭に、幼い頃の記憶を書きました。幼いとき未熟なりにも言葉を獲得し親とも対話していたと思われる自分ですが、ある時点より昔の幼い自分の記憶を全くさかのぼれないこの現象は、先に大胆にも「(完璧に)忘却することが必要なのかも」と書きましたが、グリアによりもたらされるものもある、と考えるのはいかがでしょうか?少し大胆すぎるかもしれませんね・・。グリア・ニューロン相互作用がいつ完成するのかは諸説あると思いますが、グリア・ニューロン相互作用が成熟しきるまでは情報処理容量に関して負荷をかけない様に、またグリア・ニューロン相互作用が成熟するまでにさらされた外界・生体情報は、免疫系に例えればあたかも免疫寛容状態であるように、ある程度の刺激に対して許容範囲を有し、他方重大な事象への再暴露に際して脳が過大に反応しすぎないように、記憶を多く留めない機序がはたらいているのかなと想像します。幼い頃の「忘却」はその後の成長にとって望ましい、ということ自体が反論を浴びる仮説と思いますが日頃考えていることの一端を文字にしてみました。

最後に、振り返れば、神経疾患、精神疾患、と学生の時から分けて教育も受け、そのように考えてきましたが、遺伝子・蛋白質についていえばそれぞれの疾患でキープレーヤーといわれるものはかなり重複があることが分かります。精神・神経疾患研究、脳とこころの研究は分子という面から見ればボーダレスな時代に入っていると言えるのではないでしょうか(図2)。ですので、先にも神経細胞機能不全の所などで記しましたが、ボーダレスであるが故に、今まで以上に生体という観点を重視した展開が重要と考えております。本シリーズをこれまで書いてこられた先生方の博学かつ啓蒙的な文書と違い、今回ははなはだ私的な文章で恐縮でありますが、何かのお役に立てれば誠に幸甚であります。

プロフィール

大阪大学医学部卒。ソーク研究所ポストドクトラルフェロー、米国国立衛生研究所客員研究院を経て、1992年9月より国立精神・神経センター神経研究所疾病研究第4部部長。現在の専門は病態の分子神経科学。神経変性疾患からこころの分子基盤に渡る分野を解析中。夢のある研究が推進できる華のある研究者を育てるため日々努力中。
研究(運営)方針は「青山元不動、白雲自去来」「明暦暦露堂堂」。

H.P
http://www.ncnp.go.jp/nin/guide/r4/index.html

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