ニューロン新生の分子基盤と精神機能への影響の解明 CREST 「脳と学習」領域 大隅プロジェクト
脳と心のお話(第四話)「恐怖する脳、感動する脳」

国立精神・神経センター神経研究所微細構造研究部 湯浅 茂樹

情動と脳

大脳は精神の座の中心であり、それに連なる間脳、中脳、小脳、脳幹、脊髄は大脳からの命令を円滑に実行し、また一方では私たちの環境についての情報を適切に大脳へ伝えてどのように反応するかという判断を仰ぎます。前頭葉は霊長類で発達し、特にヒトの人たる由縁である思考、判断に基づいた社会行動、創造性、意志の源です。これに対して、食欲、性欲のような本能的行動とともに快・不快、喜怒哀楽のような情動として表出されるような心の働きには、主に大脳辺縁系 (limbic system)と呼ばれる、大脳の中でも系統発生的に古い領域が関与します。この辺縁系は解剖学的には側脳室周辺に位置して間脳を取り囲むように配置した海馬と扁桃体が主要な構成要素で、これに帯状回、梨状葉のような大脳皮質が加わります。

恐怖情動の神経回路

大脳辺縁系のうち海馬は主に記憶に関与し、扁桃体は情動に関わると大きく分けられますが、記憶のうちでも情動と強く関連した記憶には扁桃体が重要な役割を果たしています。たとえば両側の扁桃体に限局した変性が認められる稀な遺伝性疾患の患者さんでは短期記憶や認知機能には障害が認められないのにもかかわらず、情動的な事象に関した記憶が選択的に障害されています。扁桃体は特に恐怖や嫌悪のような感情に関連性が強く、とりわけ恐怖情動に関わる扁桃体神経回路に関連した研究は、これまで自然科学的研究の対象となりにくかった情動について、生物学的観点から理解する道を開きました。更に、このような神経回路機能の研究は情動障害のメカニズムの解明にも役立っています。

これまで恐怖情動に関連した記憶は、恐怖条件付けという代表的な実験手法を用いて研究され、情動と記憶を結びつけるモデルとなってきました。実験は簡単で、まず実験動物に音、光のような単純明確な手がかりを条件刺激として与え、それに続いて嫌悪刺激である足への電気ショックを無条件刺激として与え、これを数回組み合わせることにより条件付けが成立します。数日後、条件刺激を提示するだけで、動物は電気ショックが来ることを恐れてすくみ上がる、フリージングという反応を示します。このとき、実験動物の体内では恐怖反応としての自律神経系や内分泌系の変化が起こることも分かっています。このような単純な音や光を条件刺激とするのに対し、場所のような状況(文脈)を条件刺激として使う場合は、海馬も記憶貯蔵の場所となります。

このような条件付けにおいて、音や光のような条件刺激がやってくると、この情報は感覚刺激を大脳新皮質へ伝達する過程の関所ともいえる視床へ到達します。視床は大脳の腹側の奥深くに位置する神経細胞の大きな集団で、情動に関する情報はここで大きく2つに分かれます。一方の経路は大脳皮質に送られ、細かく分析された上で海馬に送られ、長期的に記憶されます。他方の経路では、情報は視床と隣り合った神経細胞の大きな集団である扁桃体へ直ちに送られます。扁桃体では感覚情報が広い意味でわれわれの生存にとって有利であるかどうかの評価、価値判断がおこなわれます。

この扁桃体での情動に関わる情報の処理結果は、まず自律神経機能とホルモン分泌の中枢である視床下部へ伝えられ、自律神経反応を引き起こして心臓の拍動が早くなり胃腸の動きも変化します。恐怖を引き起こすような刺激を受けたときは、同時に扁桃体から中脳へ情報が伝達され、すくみ上がるといった行動が引き起こされます。更に、扁桃体からは、大脳の帯状回や海馬のような大脳辺縁系へ刺激が伝わり、長期的な記憶にも大きな影響を及ぼします。このように、扁桃体には原初的な情動に関連した記憶が蓄えられ、この記憶と関連した情動刺激がやってくると記憶が引き出され、感情的ならびに身体的な反応が強く引き起こされます。この神経回路の概略が図1の左半分に示されています。

図1
図1: 情動の脳内神経回路

感動する脳

ここまでは情動の中でも恐怖や嫌悪感に関係した情報処理過程を見てきましたが、では心地よい情動はどのようにして生じ、またどのようにコントロールされているのでしょうか?脳内で快情動が生まれるには、報酬系と呼ばれるさらに別の脳内システムが関与していますが、このシステムは扁桃体を中心とするシステムと密接な関係を持っています。扁桃体、視床下部を経由した情動刺激や腹側被蓋野と呼ばれる中脳の特定の領域を経由した快感、満足感を引き起こす刺激が、大脳腹側の深部に位置する神経細胞集団である側坐核で神経伝達物質のひとつドーパミンの放出を促します。この側坐核内でのドーパミン放出がもとになって、脳内に心地良い感情が生ずると考えられています。このシステムは、正常な快感とともに、麻薬や覚せい剤のような薬物による快感や、そのような薬物への依存の形成にも関わることがよく知られています。この快情動の神経回路の概略は図1の右半分に対応します。

それでは、音楽を聴いて快い感動が生まれる、という場合、脳内の仕組みはどのようになっているのでしょうか?音楽によって感動することにはドーパミン放出を伴う報酬系が関わるとともに、強い感動は報酬系からひろがる興奮が、大脳皮質はもちろん、脳の広い領域で同調して強まることによって起こると考えられています。音楽を聴いて快い情動が引き起こされたときに活動の高まる部位についてPETを用いて調べた研究で興味深い結果が示されています。音楽を聴いて“震えるような感動"をおぼえた場合、心臓の拍動、筋肉の緊張や呼吸数が変化し、このような自律神経系の反応が強い場合、側坐核、扁桃体、前頭前野、前頭葉眼窩野、中脳といった報酬・情動系での大きな血流変化が認められることが明らかになっています。これらの領域は、摂食、性交、麻薬・覚せい剤のような快感を引き起こす刺激に反応して活性化されることはよく知られており、音楽と生存本能に関連した刺激が脳内の快感・報酬系回路を共有することは印象的です。

更に、失音楽症という、多くの場合脳血管障害によって音楽に対する認知能力が失われた症例から貴重な知見が得られています。失音楽症の患者さんのうちのある症例では、旋律を分析的に認識する能力を完全に失っても、旋律の感情的要素、すなわち悲しい旋律か、楽しい旋律か、という判断はできます。これに対し、音楽の諸要素についての分析的能力は完全に保たれているにも関わらず、音楽の表現する感情的要素を全く理解できなくなった症例もあります。後者では、まさに左側の扁桃体を含む大脳辺縁系から大脳新皮質にかけた領域が脳梗塞により広く冒されていました。このような二つのカテゴリーに属する症例から、音楽を分析的に聴くことと感情的に聴くことは別のものであることが明らかになっています。

情動を制御する分子メカニズム

これまで述べてきたように、脳内には感情が生み出される複数のシステムがあり、特に不快な感情に直接関わる扁桃体を中心とするシステムと、快い感情に関わる側坐核を中心とするシステムが主要な構成要素であると考えられます。このように、情動が生まれる脳内のシステムの理解は進んできていますが、それではこのようなシステムはどのような分子メカニズムでコントロールされているのでしょうか?システムの制御は神経細胞間の興奮伝達と神経細胞内の情報伝達のレベルでおこなわれると考えられます。扁桃体におけるコントロールの分子メカニズムは、特に情動にかかわる記憶の形成のメカニズムと関連して欧米では10年ほど前から活発に研究されるようになりました。我が国でも最近ではこの領域の研究が行われるようになりましたが、不明なことが非常に多いというのが現状です。

扁桃体内ではグルタミン酸作動性とGABA作動性の神経伝達が基盤となり、カテコールアミンによる神経伝達がこれらを修飾しています。図2では扁桃体における豊富なGABA作動性シナプス形成を示しています。扁桃体内におけるこのような神経伝達の重要性は、情動障害の治療薬の開発をおこなう上でも非常に重要になります。たとえばPTSDの病態には恐怖情動記憶の消去がうまくおこなえないことが関わっていると考えられていますが、グルタミン酸受容体のうちのNMDA受容体を刺激する薬物やドーパミン受容体を阻害する薬物の一部は恐怖記憶の消去を促進することが分かっています。今後は、このような薬物の作用機構を手がかりにして、情動記憶の形成や消去のメカニズムが明らかにされてゆく可能性があります。また、扁桃体における特異的な遺伝子発現や、情動反応にともなって発現が制御される分子の機能も重要な手がかりになります。さらに、恐怖反応が亢進しているようなモデル動物も情動制御の研究に有用です。特に恐怖情動反応の異常を示す遺伝子ノックアウトマウスが多数知られており、今後、このようなモデル動物を用いて情動の分子機構が明らかにされてゆくことが期待されます。

図2a図2b

図2: マウス扁桃体のGABA作動性神経終末とシナプス
a. GABA合成酵素であるGADを含む神経終末はマゼンタ(赤紫)、シナプスを形成したシナプトフィジン陽性の神経終末は緑で標識されている。両者が共存して白色になった部位がGABAシナプス形成部位を示す。スケール 20 mm.
b. GABA合成酵素であるGADを含む神経終末が神経細胞体上に形成したシナプスの電顕像。スケール 0.5 mm.

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