ニューロン新生の分子基盤と精神機能への影響の解明 CREST 「脳と学習」領域 大隅プロジェクト
脳と心のお話(第三話)「心や脳を理解することができるだろうか?」

第3話では、心や脳が本当に理解できるのか、ということを考えてみましょう。

「脳と心」と聞いたとき、みなさんは何を思い浮かべますか? ある人は「心は脳にあるのだろうか?」と疑問を持ったり、別の人は「現代科学は心の働くメカニズムを解き明かすことができるのだろうか?」と考えたりするかもしれません。あるいは「脳の機能はどこまで分かっているのだろうか?」と問いかける人もいるでしょう。

「心が体のどこにあるのか?」の問いかけに対しては、このシリーズの第一話で詳しく語られており、心は脳が生み出すということでした。このことを強烈に示した実験があります。40年以上も前に行われた「電気刺激により記憶を再現する実験」です。

てんかんの患者さんの治療のために、てんかんの原因となる側頭葉の除去手術を執刀していたカナダの脳外科医ペンフィールド が、患者さんの承諾を得て露出した脳の表面に弱い電流を流したところ、過去の記憶を鮮明に思い出すという衝撃的な事実を発見しました。ある患者さんにはかつて働いていた事務所の光景が鮮明によみがえり、別の患者さんにはピアノの伴奏を伴う歌曲の旋律がよみがえりました。同じ患者さんでも刺激する側頭葉の部位を変えることにより、異なる記憶を想起させることができたといいます。きわめて自然な情景がきわめて人工的な電気刺激でよみがえったことは驚くべきことで、「心の座」としての「脳」を強烈に印象づけます。

さて、2つ目の問いは、「物理学や化学などの物理科学的手法で脳の働きを理解することができるのか?」という問いに置き換えることが出来ましょう。正直に申しまして、答えるのがとても難しい問いかけです。

デカルトやカントなどの哲学者を持ち出すまでもなく、「人間あるいは自己とは何だろうか?」といったことを考えたことのある人は多いでしょう。古今東西の哲学者はこの問いかけに対してさまざまな解答を与えてきました。当然のことながら、こうした問いかけに脳を研究する科学者も答えていかなければならないと思います。脳が心の座であるあることを前提としますと、この質問は科学の言葉では「脳の働きの原理は何か?」といったことに置き換えることができましょう。すなわち、先の「脳の働きを物理科学で理解できるだろうか?」と同じ問いかけです。

現代文明は自然科学とそれに由来した技術の上に成り立っていることから、科学は自然現象を全て解き明かせる、という科学万能信仰があるようです。誤解を恐れずに申し上げるならば、現代科学、特に物理学や化学などの物理科学は数値や数式で表現できる自然現象のみを対象としています。例えばニュートン力学では、初期条件としてある時刻での位置と運動量が分かると、その物質のその後の振る舞いは完全に予想することができます。だからロケットを正確に月に着陸させることが可能なわけです。電磁気学や相対性理論、量子力学にしても、数と数式でこの世の物質の客観的な振る舞いを書き表すことができるという世界観に立っています。化学も同様です。

従いまして、物理・化学を基盤とした現代の生物学、そして脳科学も計量化できる現象を対象としている訳です。言い換えれば、現代科学は生物学も含めて、計量化できる現象に「絞って」研究している訳です。「心」という数値化できない「あやふやなもの」は、本来科学の対象となりにくいものです。

では、心の問題、脳の機能は科学的手法を用いた研究では解き明かせないのでしょうか?実際には、心の働きの現れである記憶や情動、注意といった高次の脳機能を分子レベルで理解する研究も少しずつではあるが着実に進んでいます。現代科学で心の全てが明らかにされるとは考えにくいのですが、私たち脳科学者は当面の目標として、物理科学でどの程度まで脳の機能を理解できるのかに焦点を絞って研究していくのが現実的であると同時に実りある立場だと考えております。

脳の大きな特徴の一つは、多層にわたる階層性であります。分子レベルやシナプス・細胞レベルの上の階層には、神経の回路網があり、その上には回路網の集合体の脳があります。脳を構築している分子や神経細胞(ニューロン)などの働きが明らかになったとしても、それだけでは私達が普段イメージする心の働きが理解できたとは言えないでしょう。特定の神経回路網を電気パルス信号が流れることから心の働きがイメージできるようになって初めて心が理解できたと言えるでしょう。

ラットの脳構造のゴルジ染色像。1%以下のニューロンが染色される方法で脳の切片を染色すると、一つ一つのニューロンの構造がくっきりと浮かびあがってくる。さながらジャングルのようである。一番上が大脳皮質、中段に左右一対あるのが記憶中枢の海馬、一番下は視床下部である。 二本松伊都子氏提供

余談になりますが、私たちの頭の中を無数の電気パルス信号が飛び交っていることを想像すると、不思議な気がしてきます。この文章を読んでいるみなさんの頭の中でも、いま盛んに電気パルス信号が飛び交っているわけです。もちろん睡眠中でも夢を見ているときでも、無数の信号が行き来しています。混線したら大変だと心配になってきますが、脳はうまいこと出来上がっていて電気パルス同士がショートすることは無いように巧妙にできているようです。

記憶は「物質としての脳」に存在する

「脳内の分子レベルや細胞レベルの現象をうまく記述することができたとしても、それは例えればコンピュータがどのようなハードウェアでできているのかを知るようなものである。同じ機能を持つコンピュータを異なるハードウェアを使って作ることが可能であることを考えると、ハードウェアそのものはコンピュータの働きには本質的なものではないだろう。こう考えると物理科学的手法で分子や細胞レベルの研究をしても脳の働きの本質を知ることはできないのではないか?」といった反論があります。しかし分子や細胞レベルのメカニズムを明らかにすることが本当に無駄でしょうか?

培養したニューロン。左下の丸い部分が細胞体、放射状に伸びている緑色は樹状突起である。赤い点々はスパイン(棘)で、シナプス信号の受け手側の構造である。 笠井陽子氏提供 最近の脳科学研究により、ニューロン同士をつなぎ信号を伝えるシナプス結合は、電気回路の結節点やコンピュータ素子のような機械的で受動的なものとは異なり、新たな入力(経験)に対応して自らを発展させて適応していく非常に動的なものであることが分かってきました。脳はさまざまな遺伝子を動員して構築されたニューロンというハードウェアを使い、長い年月をかけて進化してきた器官です。いま私たち人間が持っている遺伝子やニューロンといった実に精緻な材料以外のもので、私たちの脳と同じ機能をもつものができたでしょうか?他に選択の余地があったとは到底思えません。

脳機能の本質がその物質的な構造に支えられていることは軽視できない点であります。ここがコンピュ−タと根本的に違うところと言い切っていいでしょう。もちろん、分子や細胞の機能の理解のみでは脳の働きが説明できないのは言うまでもありません。これからは脳の神経回路の計算機論的な研究と分子・細胞レベルの研究の間の溝を埋める努力がますます重要になってくると思います。

著名な脳の研究者が脳の研究を物理学の歴史に例えています。「私たちはまだきわめて初歩的な段階にいます。物理学の歴史に例えれば、15−16世紀といったところでしょうか」と。15−16世紀といえばガリレオやニュートンの直前で、物理学がまだきちんとした学問体系になっていない頃です。見方を変えれば、わたしたちは脳研究のガリレオやニュートンを輩出する直前にいるのかも知れません。最近の脳研究の進捗を見ますとそうかも知れないと期待を持つことができましょう。

(3つめの問題「現代科学で脳の働きはどこまで明らかにされているのか?」については第2話でも触れられていますし、これからもこのシリーズで取り上げられていくと思いますので、それらを参照して下さい)(文責 井ノ口馨)

分子メカニズムの理解が必要である
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