ニューロン新生の分子基盤と精神機能への影響の解明 CREST 「脳と学習」領域 大隅プロジェクト
脳と心のお話(第二話)「神経の働きと記憶のしくみ」

第一話では、「心がどこにあるか」という話題が取り上げられ、それには脳が重要な役割を果たしているということでした。 今回は、その脳がどのような構造をもっていて、それがどのようなしくみで働くかに焦点を当てて話しを進めたいと思います。 「心」がどのように形成されるかは非常に難しい問題ですし、今後もこのシリーズでそれに関する話題が展開されると思われますので、 今回はその基礎となる神経系の働きと脳の高度なしくみの一面をお話ししたいと思います。

足の立たないプールの中で、足の立つ台に向かおうとしているマウスヒトの臓器でも肝臓などでは同じような細胞が集団を成し、それがひとかたまりとなって栄養素の消化や体に必要なたんぱく質の合成などをしていますが、大雑把に言ってしまえば『肝細胞の集団=肝臓』と言ってもそんなに大きな間違いではありません。したがって、肝臓の機能を詳しく知りたければ肝細胞を詳しく調べればかなりのことがわかります。それに対して、脳や脊髄などの中枢神経系は、血管などを除けば、大きく分けると神経細胞(ニューロン)と神経膠細胞(グリア)という2種類の細胞から成り立ちますが、脳の部位によってその形や働きは大きく異なりますし、肝臓などの器官に比べるとそれぞれの細胞間の結合がきわめて複雑であることも際立った特徴です。

たとえば、脊髄を例にとってみると、内科の診察などで行われる膝蓋腱反射(膝の下の腱をハンマーなどで叩くと足が跳ね上がる反射)では、足の曲がり具合を知らせる足からの知覚情報が脊髄内の運動ニューロンに入り、運動ニューロンで興奮が起こるとその活動が足にまで到達して足を持ち上げるという反応が自動的に起こります。このような単純な神経の働きも、脊髄内の運動ニューロンと脊髄の横に位置している感覚ニューロンの2種類のニューロンが脊髄内で特殊な結合を行うことで成り立っています。私たちが足を動かすときには、この反射経路がさらに脊髄内のニューロンや脳からの指令を受けて修飾されることにより、非常に複雑な動きをきわめて滑らかに行うことができるわけです。その機構の詳細については、かなり専門的になりますのでここでお話しするのは省略しますが、強調しておきたい点は、神経系では単にニューロンが数多く集合するだけでは機能せず、きわめて単純な反射であっても複雑な結合による細胞間の相互作用が必要であるということです。

それでは、このシリーズで取り扱う脳での情報処理はどのように行われているのでしょうか。例として視覚系を考えてみましょう。外界の視覚的情報は、まず眼の網膜に2次元的に投射され、それが網膜内に存在するニューロンにより電気的な波のような信号に変換され、デジタル信号として視覚に関与する中枢神経系に伝えられます。ここでも、いくつかの種類のニューロンがそのあいだで働きますが、最終的には脳の後頭葉に存在する視覚野という領域に情報が伝えられて外界を3次元的な像として認識することになります。ただし、真の意味で外界の像を認識するためには、さらに上位の中枢神経系が働くことが必要とされていますが、それに関してはやはり専門的過ぎますので、ここでは省略させていただきましょう。いずれにしても、視覚というひとつの感覚に関してだけでも無数のニューロンが関わっており、その複雑さという点では先に述べた肝臓のような臓器とは完全に一線を画しています。

このように、運動や感覚といった比較的単純な脳機能もきわめて複雑なニューロンの相互作用によりもたらされているわけですから、「心」を理解することはかなりの難問であることは容易に想像できるのではないでしょうか。それでは、「心」の定義はひとまず置いておいて、「心」の形成に密接に関与していると直感的に感じていただけるであろう、私が専門としています『記憶』のお話に話題を変えましょう。一般的に記憶といっても多くの種類があることがわかっています。たとえば、旅行したときの出来事を思い出すことも記憶のひとつでしょうし、子供のころに自転車に乗る練習をしてうまく乗れるようになって、その後20年間自転車に乗っていなくても、練習なしですぐに問題なく自転車を乗りこなせることもある種の記憶でしょう。また、怖い出来事に遭った場所に行くと、知らず知らずに胸がドキドキし始めるのも、脳の中に何らかの記憶が残っているためでしょう。このように、現在では、多くの種類の記憶が存在し、それぞれが異なったしくみで異なった脳の部位に痕跡として残ることがわかっています。ここでは、そのすべてを説明することはできませんので、代表的な記憶として「出来事や事実」に関係する記憶について詳しく説明することしましょう。

マウス脳から取り出した海馬のスライス写真ヒトでの観察や実験動物を使った研究から、事実や出来事に関する記憶の形成には、系統発生的に古い大脳皮質である『海馬』(形がタツノオトシゴ(sea horse)に似ていることからこのように呼ばれています)という脳部位が深く関与することが知られています。この種類の記憶は、その内容を言葉で表現しやすいことから(たとえば「去年、アメリカ旅行をしてゴールデンゲートブリッジを渡った」などのように)、専門的には陳述記憶(あるいは顕在記憶)と呼ばれています。それに対し、自転車の乗り方を忘れないような記憶のようにその実体そのものを言葉で表現しにくい記憶を非陳述記憶(あるいは潜在記憶)と呼びます。ここで注意しておきたいのは、一般社会で用いられる「潜在記憶」(「心」の奥底に埋もれてしまった記憶)と専門的な意味での「潜在記憶」とは大きく異なるという点です。

それでは、陳述記憶はどのようにして形成されるのでしょうか。海馬には、先に述べた視覚や聴覚などの知覚情報が大脳皮質を介して入力することが知られており、海馬の中で必要な情報が一定期間蓄えられます。ヒトの場合には、一般的には2年間ほど蓄えられて、それが必要な情報であると判断されたときには、大脳皮質の一部に分散されて保存されることが知られています。また、ネズミの場合には、この期間が2週間程度であることが実験的に明らかになっていますが、このような期間の違いがどのような機構によりもたらされるかについてはまだよくわかっていません。しかし、ヒトにおいてもネズミにおいても長期的な陳述記憶の形成には海馬が必須であることが知られています。ヒトにおいては、てんかんを治療する目的で海馬の除去手術を受けた人で長期記憶の形成能力がきわめて悪くなることが観察されています。この人の場合、先ほど述べた陳述記憶がほぼまったく形成されなくなってしまいましたが、自転車に乗るのがうまくなるというような運動に関する記憶に関してはまったく正常であることが明らかになっています。このような脳に傷害をもったヒトの観察を通じて、ヒトでも多くの種類の記憶が存在し、それぞれに異なった脳の部位が関与していることがわかりつつあります。現在では、ネズミに遺伝子操作を加え海馬の働きがうまくいかないようにしてしまうと物覚えが悪くなるということも明らかとなっており、記憶がどのように形成されるかに関する分子・細胞レベルでのしくみが解明されようとしています。

それでは、海馬はどのようにして情報をためこむのでしょうか。他の脳部位でも基本的には同じなのですが、海馬においてはニューロンとニューロンのあいだに存在するシナプスという特殊化した部分に情報をためる能力があることがわかっています。神経系での情報は電気信号の波であるデジタル信号で伝わっていくことは先に述べた通りですが、シナプスではそれが神経伝達物質という化学信号に置き換えられます。生体の中で電気信号を修飾することはかなり難しいのですが、化学信号には比較的容易に修飾を加えることができることがこれまでの多くの研究により明らかになっています。海馬における記憶の形成でもシナプスでの化学信号の修飾が本質的な変化であることがわかりつつあり、その変化によってシナプスでの情報の伝わりやすさが長期的に変化することが記憶の形成に重要であることが明らかとなっています。生活の中では、知らず知らずのうちにいろいろな意味での記憶が活用されていますが、ほとんどの人はそのことに気が付いていないでしょうし、それがどのようにもたらされているかについて疑問ももっていないでしょう。しかし、現代社会は、記憶が脳の中でどのように形成され活用されているかに関するしくみが脳・神経科学の研究を通じて少しずつですが確実に明らかにされようとする時代に突入していると言えるでしょう。 (文責 真鍋俊也)

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