ニューロン新生の分子基盤と精神機能への影響の解明 CREST 「脳と学習」領域 大隅プロジェクト
瀬川 茂子×井ノ口 馨 学習で脳のネットワークが変わる

インタビューを通じて脳研究者の素顔に迫ります。

Profile
井ノ口馨

名古屋大学農学部卒。農学博士。コロンビア大学医学部研究員、ハワードヒューズ医学研究所リサーチアソシエート、ニューヨーク州立精神病研究所研究員を経て、現在は三菱化学生命科学研究所研究主幹・グループリーダー。2001年より横浜国立大学大学院客員教授を兼務。専門は分子神経生物学。著書に「わかりやすい分子生物学」(共著、丸善,、1999)、「脳・神経研究のための分子生物学技術講座(共著、文光堂、2000)、「遺伝子制御による選択的シナプス強化・除去機構の解明」(共著、クバプロ、2005)などがある。

瀬川 生物をめざしたきっかけは。

井ノ口 実は、めざしてなくて、偶然、この道に入っちゃったんです。高校時代は哲学少年で、人間とは何か、宇宙の本質とは何かといったことを考えていた。人間も物質でできているから、人間とは何かを知るためには物質の本質を知りたいと思い、素粒子物理学に進みたかった。でも物理に行くことができず、第2志望で農芸化学に行きました。そこで勉強するうちに、生物学は、人間とは何かを直接扱う学問だと思い、面白くなりました。

瀬川 この道を究めようとされたわけですね。

井ノ口 ところが、やっていくうちに、なんだか不満を感じるようになりました。20世紀の生物学は、世紀半ばのワトソンとクリックのDNAの二重らせんの発見とそれに続くセントラルドグマの発見で、遺伝的に決定されている生命現象に関する概念はすでに明らかにされており、あとは、重箱のすみをつついているだけなのではないかという気がしてきたからです。自分は、大腸菌や酵母で、遺伝子がどう働いているかという研究をしていました。生命の本質に迫ろうと思って研究していたのですが、子供はどうして親に似るのかといったこと、つまり遺伝的に決定している生命現象の本質は概念としてはすでにわかっているじゃないかと思えたのです。

瀬川 壁にぶつかったのですね。

井ノ口 ええ。研究者のはしくれなら、いちばん大きなことをやりたいでしょう。でも、それはもうワトソン・クリックで終わっている。そんなある日、たまたま研究者仲間の雑談で、免疫や脳の働きは生まれてからの環境で変わるという話が出てきた。そうだ、と思った。脳の働きの原理はまだ何もわかっていない。脳をやりたいと思いました。21世紀の生物学はこれだ、エピジェネティックだ、と思ったのです。遺伝子配列だけで決まらず、環境によって遺伝子の働きが変化するエピジェネティック、遺伝情報という先天的なものと環境要因という後天的なものの相互作用が脳の働きを決めている。興奮しましたね。

瀬川 それで脳研究を始めたのですか。

井ノ口 でも、それまで10年ほど微生物や遺伝子の研究をしてきたわけですから、自分の力で脳研究ができるのか悩んだ。1987年ごろの話ですが、まず一般向けの脳の本を読んだ。20冊くらい。その中の1冊にこんな話が出ていたんです。脳のハードウエアは神経細胞(ニューロン)のネットワークでしょう。学習記憶も、すでにできあがっているハードウエアを使ってなされる。でもそれだけでなく、ハードウエア自体が再構成すると。学習記憶によって、ニューロンのつなぎ目であるシナプスができたり消えたりするというのです。それなら、その時に、遺伝子の働きが必要だと気づいたんです。ここに、自分が参入する切り口があると思った。

井ノ口博士を脳研究に導いた故塚原博士の著書「脳の可塑性と記憶」。ニュースレター第1号に井ノ口博士による書評が掲載されている。瀬川 当時としては、画期的な概念ですね。

井ノ口 そうです。私が読んだのは、85年に日航機事故で亡くなった塚原仲晃先生の本でした。当時は、いったんできたシナプスは生涯変わらないと思われていたので、先生の話は、センセーショナルに受け止められたいたらしい。でも、私は素人で、そういう既存の概念を何も知らなかった。何も知らないから、そうか、学習記憶で、シナプスはできたり消えたりするんだと素直に受け止めた。新しい概念を受け入れられるということは、素人が参入する時の武器になると思います。

瀬川 脳はダイナミックに変化する。その謎解きに遺伝子で迫れると思ったわけですね。

井ノ口 はい。塚原先生の本がきっかけとなって調べてみると、すでに86年ごろ、エリック・キャンデルが、長期記憶には遺伝子発現が必要だと書いていることがわかった。しかも、遺伝子からできるたんぱく質がシナプスの形態を変えるだろう、ということまで推測していました。これは、目からウロコでした。世界のトップの研究者がアイデアとしてもっている。それなら、自分はそこに行って実証するしかないと思いました。記憶研究でトップのキャンデル研究室で記憶遺伝子を同定しようと決め、留学しました。91年から2年半、アメフラシを使って、記憶に関係しそうな遺伝子をいくつか見つけました。日本に戻ったので、続きは、自分の後に入った研究者が引き継ぎました。

瀬川 キャンデル教授は、2000年にノーベル賞を受賞されていますね。まさに世界のトップの現場を見て、驚かれたことはありますか。

井ノ口 情報が早いことですね。あそこのラボでこういう結果が出たという噂がでると、すぐにその人を呼んで、セミナーを開く。論文が出るのはその1、2か月後。未公開データを議論して次に何やるか考えている。すごいと思いました。それから、徹底した議論。カルチャーの差ですかね。実験する前にアイデアを出し、徹底的に議論して仮説をたてる。一日中実験をしないで、議論だけで終わってしまう日もあるんですね。ただ実験してデータが出ても、仮説がだめならそれで終わってしまうということを考えさせられました。

研究室風景。狭いベンチ上の実験から脳機能が明らかにされていく。興味深い結果が出た時は、世界中で自分たちだけしか知らないという事実に興奮を覚えることもしばしば。

瀬川 日本に戻られてからのご研究は。

井ノ口 私のライフワークは、塚原先生の本を読んだ時から決まっていて、学習記憶にともなうハードウエアの再構成、シナプスができたり消えたりすることがあるということを分子レベルで証明することです。遺伝子は分子レベルのツールになります。細胞レベルの記憶メカニズムとして「長期増強(LTP)」という現象が知られています。これは1回強い刺激を与えると、シナプスの伝達効率がよくなり、その効果は持続するというものです。

瀬川 LTPにともなってシナプスが変化するのですか。

井ノ口 はい。シナプスの情報の受け手側となる神経細胞には、スパインと呼ばれるとげのような小さな突起があります。この突起にあるアクチンというたんぱく質に注目しました。LTPが起こると、スパインの中で数珠繋ぎになったアクチンが増え、スパインが大きくなることを証明しました。この変化は5週間も続きました。またアクチンが数珠繋ぎになることを阻害すると、LTPは持続しませんでした。

瀬川 アクチンは筋肉の細胞で働くたんぱく質ですね。頭も筋肉と同じように鍛えられるということですね。

井ノ口 筋肉は使うことで鍛えられアクチンが増えますが、神経細胞も使うとアクチンが増えて鍛えられるということです。ともあれ、LTPにともない、スパインの形が変わることを実証したことは、ハードウエアの再編成があることの第一歩を示したことになりますので、たいへん興奮しました。この研究は続けておりますが、実験をしていると、目的以外の遺伝子がいろいろと見つかり、予想外に面白かったりして、寄り道も多くなります。

学習記憶テストに用いるラット。脳の遺伝子機能を人工的に改良することで、頭のよいスーパーラット・スーパーマウスを作成することが可能になった。瀬川 たとえば…。

井ノ口 これはだいぶ前の話ですが、人工的に記憶力をよくさせたラットができたのは、非常に面白かったです。カルシニュリンというたんぱく質は、LTPを阻害することが私たちや他のグループによって明らかにされていました。そこで、阻害する働きを阻害すれば、逆に、記憶力よくなるはずだと単純に考えました。やってみたら、本当にそうなったのです。恐怖条件づけといって、動物をある箱に入れた時に電気ショッを与えると、次にその箱に入れただけで体がすくむようになります。弱い電気ショックなら1、2日たつと忘れてしまい、箱に入れても自由に動きまわります。ところが、私たちがつくった「賢い」ラットは、ショックをずっと覚えていて何日後に箱に入れても体をすくませていました。

瀬川 分子1個で賢くなる。

井ノ口 ええ。興奮しました。分子をターゲットにして、脳の機能をよくすることができると実感できましたので。分子治療の道が現実的なものに感じられた。いざ実際の薬の開発となれば、副作用の克服など道のりは遠いでしょうが、原理としては、人間の脳機能をよくすることもできる、人間に役立つかもしれないと思いました。基礎研究をしていると、人の役に立つことを意識することはあまりありませんが、根本的なことがわかると、いつか応用できるかもしれないと思いました。

瀬川 記憶の基礎研究が思わぬ応用に結びつく可能性があるわけですね。

井ノ口 はい。きわめてつらい体験が引き起こす精神障害である外傷後ストレス障害(PTSD)の治療に役立つ可能性もあります。意外に思われるかもしれませんが、記憶は思い出す時に不安定になるんです。いったん不安定になりますが、再固定というメカニズムが働くので安定します。何度も思い出すと再固定を繰り返し、安定した記憶ができあがると考えられています。再固定には、さまざまな分子がかかわっています。再固定は、普通の人にはなじみがない概念かもしれませんが、この仕組みを解明すれば、再固定のプロセスを制御できる可能性があるわけです。たとえば、阪神大震災などのつらい経験を思い出すときに、再固定にかかわる遺伝子を阻害すれば、記憶が再固定せず、忘れてしまう…。と考えると、PTSDの根本治療法の開発の可能性があるでしょう。

瀬川 精神的な病気にも遺伝子研究から新しいアプローチが出てくる可能性がありますか。

井ノ口 はい。記憶の研究で見つかったある遺伝子の働きを調べていて、人の精神病と関係があるかもしれないと思うこともあります。1つの記憶は別の記憶と正しく関連づけられて、しまわれています。ところが、統合失調症の患者さんは、関係がある情報どうしが結びつかなかったり、逆に関係がない情報どうしが結びついたりしています。記憶の貯蔵が適切になされていないのかもしれません。

瀬川 記憶の貯蔵のしかたの異常という見方ができると。

井ノ口 一つのニューロンは数万のシナプスをもっています。この記憶はこちら、別の記憶はあちらとシナプスをちゃんと使い分けて、混乱しないことが正確な記憶に必要です。ある特別な情報が入ってきた時に、特定のシナプスだけに変化が起こる。つまり、シナプスの変化を起こすたんぱく質が、その場所に配達されることが必要です。どのような仕組みでそんなことが可能になるのでしょう。特別な情報が入ってきたときに、そのシナプスに目印がつくという考え方があります。運ばれたたんぱく質は目印がついているところにだけおさまるという考え方です。私たちは、その分子実態を明らかにしたいと研究を進めています。脳の情報処理の特異性を保証している機構の解明ですね。理解が進めば、統合失調症の原因の一つに、シナプス特異性の異常があるかもしれないと考えています。

瀬川 かつては考えられなかったけれど、分子のアプローチがずいぶん広がって、脳の理解が進んでいるのですね。

井ノ口 基本的には脳は分子でできているのですから、分子から積み上げると脳が理解できると思えるようになりました。脳科学には、還元論では理解できない、全体論でないとだめだという考え方がありますが、私には還元論でかなりのところが理解できるという実感があります。コンピューターネットワークを考える人は信号を出しさえすれば、デバイスは何でもいいと考えるかもしれませんが、脳はそうではないと思います。脳のネットワークは、40億年の進化の歴史の中で、選ばれた部品が使われているのです。40億年の歴史が分子1つ1つにこもっているのですから、1つ1つの働きを理解してはじめて、ネットワークの作動原理もわかるのではないでしょうか。 (文責 井ノ口馨・瀬川茂子)

Interviewer
瀬川茂子

東京大学理学部卒、米マサチューセッツ工科大学科学ジャーナリズムフェローを経て、1991年朝日新聞社入社。科学部、科学朝日編集部、アエラ編集部などで、基礎科学、先端医療等を取材。現在同新聞科学医療部記者。著書に「不老不死は夢か 老化の謎を解く」(講談社 2004)「脳はどこまでわかったか」(朝陽選書 2005)がある。趣味は旅行。

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